宇田川 健次 回顧録
〜私の80年、心に感じ記憶に残ったこと〜
1932年世田谷区世田谷(現上馬)に生まれる
5、6歳の頃は、水ぬるむ春先から秋の水が冷たく感じる頃迄、南たんぼ(世田谷弦巻向井天神橋付近)での、えびがに、小魚取りの毎日で、当時は現在の弦巻小学校から南へ行き川(この川は蛇崩川といい、馬事公苑付近に源を発し目黒川に合流する。)の所へ行け
ば正面の遠くに弦巻神社が見え、左の方のもっと遠くに水道
部(駒沢給水塔;右写真)と呼んでいた大きな水道塔が見え、
どんな建物なのだろうと一度だけ行きましたが見上げるほど
の大きな建物にはびっくりして帰ってきました。回りは畑と田
圃だけで夏場でも夕方になると、人は一人もいなくなり遅く迄
いると人さらいにさらわれサーカスに売られてしまうと親から
言われたものでした。
 その他の遊びといえば、かくれんぼ、めんこ、ベーごま、あやとり、石蹴り、折り紙等道具をあまり使わない遊びが殆どで、最大の楽しみは12月と1月のボロ市(北条氏政が世田谷の地に開いた「楽市」が起源。)と此れを挟んだお正月でした。当時はその名の通り半分くらいの店は現在風に言えばリサイクルショップでした。

 私は小さい頃から物を作る事が好きで、又ゼンマイ仕掛けの電車、自動車の中がどの様な仕掛けになっているのか知りたくて、やっと買ってもらった、おもちゃを数日で、ばらばらにしたりして親にひどく怒られた事は度々でした。桜小学校2年生の時、母親に連れられ渋谷東横百貨店(現東急東横店)の7階の食堂へ食事に行き、帰りに窓から蒸気機関車を見て其の動きにびっくりしました。当時曇天の時には我々が住んでいる所、世田谷まで時々汽笛が聞こえましたが、親に聞いて汽車が出す汽笛だと言われても実物を見ていない私にはどんな物なんだろうと納得の出来ない時期でした。初めて近くで動いている蒸気機関車を見ることが出来、唯ピッタリの一言でした。

 学校の工作の時間(当時桜小学校在学)に粘土細工が有り蒸気機関車を作ったところ担任の赤津先生に大変褒められその場で書き方の時間に使う文鎮を頂きました。其の頃学校が夏休みなどになると友達が、おじさん、おばさんに会いに行くので汽車に乗って行くんだとの話を聞くたびに自分は10分、遠くても1時間も歩けば会えるのに不思議に思いました。学校では年上の従兄弟、従姉妹が大勢居り悪さなどしても、のうのうとしておりました。授業では工作の時間が一番の楽しみでした。4年生の時に新しく出来た弦巻国民学校へ深沢、駒沢、桜の4年生以下の生徒の一部が移り、我々のクラスは進藤先生の担任となりました。音楽の時間は久保内先生が受け持たれましたが、若い女の先生という事と当時は歌といえば軍歌ばかりで音楽の時間の唱歌はつまらなく、クラス全体が勝手な事をしていて、歌わず先生を何度も怒らせ授業時間中に職員室に帰られてしまい、その都度級長、副級長等が謝りに行くという繰り返しをして、それが進藤先生の耳に入り酷く怒られ、全員机の横に一時間正座をさせられた事もありました。その後、久保内先生が仕方のない生徒だと思われたのか音楽の時間にポータブル蓄音機、レコードを持ってこられ、ヨハン・シュトラウスの、「美しき青きドナウ」を聞かせていただき、私はこの世の中にこんな美しい音楽が有るのかとの思いで、生涯忘れることの出来ない音楽となりました。そのからクラシック音楽に興味を持ち高校1年の時、友達と音楽鑑賞会なる怪しげな、クラブをつくり学校からお金を戴き自分の好きなレコードを買いモーツァルト、ベートーベン、バッハ、ラテンと聞くようになりましたが、これも久保内先生のおかげと思っております。


 ある時イタズラをして、進藤先生に廊下で立たされ、その事を先生に忘れられ夕方に、「おい宇田川、何で立って居るんだ」と言われ、「先生が立って居ろと言われたので立っているんです。」と言うと、「ごめんゴメン先生が忘れてしまった今日は先生が悪かった、謝るから直ぐに帰りなさい。」と当時教職員以外は通れない正門の所まで送られたほろ苦い思い出が有ります。その後先生は山梨に帰られ校長先生になられましたが、十数年後ご交誼を頂き、長野方面に仕事に行った帰りに先生の家にお伺いをすると、「長い教員生活の中で宇田川君達のクラス程印象に残っているクラスは少ない。」と話しておりました。亡くなられたあとも奥方と、ご交誼を頂いておりましたが俳句の会で宇田川さんの事を幾つも作り発表したのですよと言われましたが、その後、亡くなられ残念な思いです。

 学童疎開で学校に残った生徒の担任は海老原先生で後に久保内先生と結婚なされ現在も先生とご交誼を頂いております。中学は友達が誰も行かない所に行って自分の力を試してみたくなり自由ケ丘学園中学校を志願して合否の発表を見に行き合格を確認した帰りに空襲警報が鳴り電車が止まり歩いて帰ってきましたが、国民学校の卒業式の日と重なり空襲報下、通信簿を頂きに一人で学校へ行きました。後年,矢野弾ちゃん(矢野経済研究所顧問)の働きにより同期の友達が集まり卒業式を行い卒業証書を戴きました。
 昭和20年になると毎晩空襲があり都内がだんだんと焼け野原となっていきました。三月十日夜の東京大空襲で東の空が赤くなり都心から避難して来た人達で世田谷道リがいっぱい。人々の話では大勢の人達が焼け死んでいるとの話を聞いて子供心にびっくりしました。東の空の赤いのが消えると火が消えたから大丈夫だろうと言って引き返して行きました。
 当時父親の工場は軍の指定工場だったので兵役は免除されていました。翌日から父は1週間くらい直径3cm位、長さが2.5m位の木で先端に鈎状の物が付いた物を持ち毎日、自転車で本所深川へ焼死体の処理に行き、その時、隅田川は死体が一面に浮いていたそうです。焼け残った柱などを集めて燃やしてその上に誰彼なく焼死体をのせて処理をしたそうで、帰って来てから父は涙ながらに話をして日本は戦争に負けたと言ったその顔は生涯忘れることが出来ません。
中学に入る頃から昼間の空襲が当たり前になり頭上でボーイングB29が長い飛行機雲を引き銀色の翼が綺麗なくらいで、子供心に日本の戦闘機がそばに行くと火を吹いて墜落をして行くのを見て不思議な思いでした。そのボーイング社の飛行機で海外へ行くなどとは夢想だにしませんでした。海外へ仕事で飛行機に乗る度に複雑な思いになります。
当時は小学校卒業で実社会へ出ていく人は大勢居りました。私は自由ケ丘学園中学に入学が出来ましたが藤田校長先生からは「自由ヶ丘に学園が有るのではなく自由ヶ丘学園が有るから自由ケ丘の地名が生まれた。」とその由来をたびたび聞かされました。中学では漢文を相当読まされましたが現在中国へ行った時それが役立っております。2年の時から夏休み、冬休みには父の工場で手伝いをしておりました。
昭和21年、22年頃はろくな食べ物もなく学校にいっても友達との話は食べ物の話ばかりでした。藤田校長先生は詳しくは解らないのですが実家は九州の炭鉱の持ち主と聞きました。若い頃、北欧の方面を歩き共産主義が人間の幸せに良くないとの思いを受け帰国後自由と言うものが人間にとって大切なものとの考えにたち学校教育の場を自由ケ丘学園としたとの話を聞きました。
高校の時毎週、藤田校長先生の授業が有り当時の社会情勢、共産思想の良くない事、卒業後の行き方その他いろいろな人生訓を教えて戴きました。当時藤田校長先生の教え子で東大教授、新聞研究所の方々の教えを受け相手を理解させる方法も教わりました。

  旧制の中学が6、3、3、制になり、そのまま高校生となりこの間、多くの良き友達に会え、裁判官、弁護士、大学の教授等、級友で、判らないことは教えを受けることが、多々有り生活上困ったことが有りませんでした。この間、林田先生(後に校長)に時々低い山へ連れて行って頂き山登りの楽しさを教えて戴き高校を卒業後、北アルプス、南アルプス等山登り
をしました。 3年の時に校長の話で、今の東大の教育方法では記憶力競争だけで天下国家の為という官僚が育ちにくくなり自己の保身のみの人が多数を占め国民の為になる官僚が少なくなると思う。私はそう長く生きることが出来ないが40年後、50年後を君達が見届けて欲しいと言われましたが現在は非常にそれに近い状態だと思います。高校を卒業して翌年藤田校長先生にいろいろお世話になったのでお礼状を兼ねた年賀状をお送り致したところ先生より返礼の年賀状に、「人生は草紙に有らざれば断じて書き直しを許さず少年よ常に真剣であれ」との言葉が書かれてあり私にとって生涯忘れることの出来ない言葉です。

  東京工業大学、電気通信大学を受験しましたが見事落第。今思えば自信過剰だったのでしょうが、しばしぼう然となりました。その時、「お前は頭で汗をかくのが駄目」との判定が下ったのだと思い、体で汗をかくことに決め、人に負けない職工になろうと思い、父親が光学用の機械を作っておりましたので、そこで仕事を始めました。父親は「見習工は見て習え」の一言だけで、先輩の仕事を見て覚えるのに必死の思いでしたが物を作る楽しみは十分味合ました。

  宇田川鍼工は最初から営業マンが居らず外部からこの様な品物が出来る機械が出来ないかとの要求ばかりで、研究・開発の日々の連続でした。それと同時に様々な方面の偉い方と知り会えました。仕事中に右目に小さな鉄片が入り外傷性白内障になり、当時たまたまオートバイに乗っていて目が赤くなり近くでと思い三軒茶屋の医院で診察をして頂いていた先生(女医)の夫の方が日本医科大学病院の院長で眼科部長でしたので直ぐに見て頂き水晶体が固まるのを待って摘出手術を受けました。当時はU字形枕に頭を1週間固定、1ヶ月の入院でした。目が見えなくなり人生も終わりとの思いも有りましたが、手術後眼帯が取れて光を感じたときの嬉しさは言葉に表せない嬉しさでした。今日有るのも此の様な大先生にお会い出来た御蔭で眼球の構造等種々と教えを受けました。今も三軒茶屋の医院で娘に当たる女医の先生に診て頂いて片方の目が白内障にならないでおり感謝しております。


  コンタクトレンズの外周部がうまく面取りが出来ていないと異物感が有り長時間していると目の角膜が酸素不足になるとの勉強もしました。目の瞼をパチパチするのは角膜に酸素を送る為の本能である事も学びました。

  昭和20代後半になると、光学界でも能率と高精度化の要求が有り、日本のレンズ加工で初めてダイヤモンドエ具を使用した機械の開発をし、30年代後半から高速レンズ研磨機等の開発を行い、更に、パテント取得の書類の書き方申請方法等、一から勉強をして特許庁と丁々発止、各種のパテントを取得しました。

  昭和46年に業界用語でレンズホルダーなる物を国内で初めて開発をして、レンズを1イ固ずつ磨く方式を開発致しました。この時光学界では初めて超硬チップを使ったカンザシとカンザシ受けを作ろうとしましたが超硬チップを作ってくれる所が無く大変苦労しました。

  レンズ研磨業界ではレンズホルダーを受け入れられず、第一の挫折が大学受験失敗とすれば第二の挫折でした。この頃にコンピューターの事が解らず中小企業大学の通信教育に入学、初めてコンピューターはO、1、Oボルト、5ボルトの世界だと解りました。ハードとソフトの教えを受け、研修の時集まった人たちは殆ど20代前半の人達でした。当時はベーシック言語でしたのでそれを覚えてレンズの研磨に必要な各種のソフトを作り、例えばカーブゼネの角度計算、レンズホルダーに必要なレンズのコバ肉、中心の肉厚計算等、現在でも利用しておりますが、これをもとに論理的な説明が出来るようになり約2年間売れなかった物が売れるようになり、現在ではレンズホルダー無しではレンズ研磨が考えられない時代となりました。この頃から紆余曲折はありましたが、多くの良き先輩、同輩、後輩に巡り会えて様々な経験を積む事が出来ました。

  振り返って見れば、お客様からの多種多様な要求・要望応えてきた結果、日本で最初の機械ばかりを作ってきました。稲盛和夫(京セラの創業者)さんが事業を始めた頃は10数人で仕事をしており、弊社から簡単な機械を納入しました。セラミックを研磨するとの事でその名前にひかれ京都に行き、稲盛さんに「セラミックとはどの様な物ですか。」と質問を致しますと、宇田川さん「瀬戸物と同じと考えればよいと思います。」との答えでした。それから10数年後に現在殆どの人工関節に使われているセラミック製の人工関節の原型が持ちこまれこれを量産化したいので内密に加工機械の製作と研磨方法を開発してほしいとの話があり'、セラミックの研削研磨は初めての経験で、手探りの状態でしたが研磨機と研磨方法を開発して約2ヶ月位で試作に成功して大変喜ばれました。その時私は「困っている人が必要とする物ですからパテントは取りませんから、少しでも安く作って下さい。」と納品しました。現在、滋賀工場で大量に作られており交通事故に逢われた方、老年の方々に利用されております。この頃から多くの良き先輩に巡り会えて、現在もお陰様で日本初開発の製品製作をさせていただいております。

  また、ソニー創業者の一人盛田昭夫さんから真空管式ポータブルラジオを、半導体を使ったラジオにするのだと言って、レンズ研磨機を買って頂き品川のソニー村に納入、何度か研磨方法、その他技術面で解らない事を教えに行き将来、真空管を使わないラジオが出来るのだなとの思いもありそれを基にその後、ウォークマンその他の半導体を使った商品が開発されました。

  パイオニアが開発したレーザーディスクの信号読み取りレンズの製作の可能性の打診を受け数年後には絵の出るレコードが出る事が解りました。

  オリンパスが世界で始めて胃カメラを開発するにあたり光ファイバーの端面の研磨機と研磨方法を開発したいと、当時同社で「研磨の名人」と言われた右原さんと言う方が来られ、一緒に機械とファイバーのホルダー等を作りました。これにより人間の体内が手術をせずに見ることが出来るようになることを知り、この光ファイバーにより人間が始めて光を直進以外にカーブをさせることが出来るようになりました。最初の製品は太く外側が固かったので患者が苦しくて歯でファイバーを咬んでしまいファイバーが駄目になり、急いでマウスピースを作り対処しました。当初はお腹の中でのフラッシュで写真を撮るので瞬間的にお腹が赤みがかりました。

  FAXも文字の読み取り装置のレンズのことで各社から相談を受け、近い将来に電話で文字や絵を送ることが出来る時が来ることも一般の人よりも早く知ることが出来、現在でもそのようなことが多く有ります。

1860年代に、ボーリングが日本に上陸し、流行り始めた頃、ボールの外側を磨く研磨機を作りましたが、ボールは指のところに穴を開けるので、中芯でないところに重りがある(偏心と言う)ことが分かりました。

  大阪造幣局には、手で磨いていたコインの金型を、自動で磨ける研磨機を納入しました。コインの外側にが有りますが、その時、縁が無いとコインが曲がってしまうことが分かりました。

  セラミックボールの研磨機で自動車のヘッドライトの非球面レンズを作り、ル・マンの24時間自動車レースであまりの明るさに業界で何処のレンズかと大きな注目を集めました。最初はヨーロッパ車の全車が取り付け、その後、日本車も全車取り付けることになりました。

  最近、江の島で猫の首輪騒ぎでIT関係の者が逮捕されたことは、報道により広く知れ渡りましたが、これは、天井に1個取り付ければ360度を一度に写すことの出来る超広角の監視カメラ用レンズをヨーロッパの学者が設計したものです。ただ、偏心精度が両凸で半球に近く光軸が1/100mm以内と高精度のため何処も請け負えなく、私のところに設計図が持ち込まれました。こんな物を作らなければならない、いやな世の中なのかと思い断ろうかと思いもしましたが、物作りが出来ないと言うのも悔しいので、宇田川の技術と機械で完成させました。「猫の首輪事件」は、嬉しいとは思いませんでしたが、早期解決に役立ち良かったと思っております。これからは、従来死角と言われたところも、写し出しますので各方面で効果を発揮するでしょう。

  いろいろな物を作り楽しい人生でした。振り返って見れば日本で初開発の物を沢山作らせて貰いました。

  私の独断と偏見に満ちた人生訓をお話し致します。

   1.自分がされて嫌だと思うことは人には絶対しない
   2.子供に自分が出来なかった夢を託すな
   3.過去の夢を追うな
   4.貧乏は恥ではないそれに甘んじる心を恥じろ
   5.失敗も大事な経験の一つ、経験の無い者は何も作れない
   6.人に親切なことをしてお礼を期待するな自分の心が貧しくなる
   7.今日会う人は皆師なり
   8.物作りは社会の為になる一つの行為
   9.人々から感謝をされるようなことをするよう努力をする
   10.今日一日を無事に過ごせた事を皆に感謝をする
   11.人に迷惑をかけないように努力をする
   12.人に誇れる自分の暦史を心の中に作る
   13.人に教えるということは技術で有り、少なくとも三つの教え方を持ち、
      学歴は必要ではないが学力は必要、人生は一生勉強
   14.すべてのことに興味を持ち、自分の得意と思う分野を伸ばせ
   15.世間から必要とされる人間になるよう努力をすること
   16.自分の人生に、努力により何時でも出来る夢を持て

  学校で、実社会で多くの良き友人、先輩、後輩、良きお客様を知り得て、私は日本で初開発の物作りに専念が出来た事に深く感謝を致しております。

追記
  地球上に何十億の人がいても、自分が、お早う、今日は、さようなら、の挨拶の出来る人が何人いるかを考え、それが自分の世界であり、他の人は路傍の人になるので多くの人と、ご交誼を願う努力をするようにと思っております。


                                           2014.10.26
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